Die Krähe Winterreise

Bibliographic Details

Title
Krahe Winterreise.NO.15(シューベルト歌曲「冬の旅 カラス」)
Author
小島悳次郎
Editor
森口太郎
Designer
Tokujiro Kojima / 小島悳次郎
Year
1957
Size
h443mm × w335 mm
Weight
3190g
Pages
12
Language
ドイツ語/英語
Binding
布製帙のポートフォリオ
Printing
型染絵
Edition
Printed Edition 80

シューベルトが好きすぎて
楽譜を染め上げた染織家、
小島悳次郎。

この本は、染織家の小島悳次郎が大好きなシューベルトの「Die Krähe Winterreise(冬の旅 カラス)」の楽譜を型染絵で仕立てた大型作品集です。

小島悳次郎は東京で友禅を染める紺屋に生まれました。 1912年生まれなので、ジョン・ケージやジャクソン・ポロックと同じ年です。30歳になる頃、たまたま訪れた日本民藝館で芹沢銈介の型染絵と出会い、衝撃を受けます。ほどなくして、芹沢銈介の門を叩き、なんと当時蒲田にあった芹沢家の隣に引っ越してきてしまいます。隣家に住み込み、芹沢銈介の愛弟子として工房で汗をながしながら、民藝運動家たちと深く関わっていきました。

このような環境にいれば、日本の産地、日本の風土、日本の民藝モチーフこそが自らの染色スタイルとして発酵していくようなものですが、 悳次郎の場合は、ちょっと違いました。同門の兄弟子だった岡村吉右衛門が日本の技で日本の心を染め上げていったのに比べ、悳次郎は、生来惹かれてきたグレゴリオ聖歌の楽譜や中世祈祷書のミニチュアールを染め変えていきました。

悳次郎の師匠の芹沢銈介は、人間国宝の染色家であると同時に古物の蒐集家でした。世界各地の民具や骨董や古道具に注目して、アジアからアフリカまで全方位で珍しいものを蒐集していました。他人に見せるためではなくて、黙々と、無造作に、机辺や部屋の一隅に放って置いたようです。ただし、そのものを見る眼は、白洲正子が「へんぺんたるブリキ絵一枚、スプーンの一本にも、桃山時代の屏風を見るのと同じ眼が光っている」と唸るほどでした。世界からの蒐集品でごったがえした 芹沢邸の異様な空気は、染織家小島悳次郎が独自の染色世界をつくりだす養分になっていきます。

悳次郎は音楽も好きでした。その執心ぶりは、戦時下の疎開先に大きな蓄音機を抱えていくほど、生活に欠かせないものでした。特に好きだったというヴェルディのオペラとシューベルトのリート(芸術歌曲)は、アトリエの室内でラジオのようにいつも流していたといいます。そうした自然の流れで、音符を型染めするようになり、77歳のときに手がけたのが本書です。最晩年の大仕事で、最後の型染版画集。限定80部だけを 自ら染め上げた帙に包みました。

本書「Die Krähe Winterreise」は、シューベルト「冬の旅 - 第15番 鴉」が題材です。「冬の旅」はフランツ・シューベルトが1827年に作曲した代表作です。ウィーンに生まれ、わずか31歳で夭折する短い生涯で、シューベルトはほとんど旅に出ることがありませんでした。そんなシューベルトが、後期ロマン派の詩人ヴィルヘルム・ミュラー(Wilhelm Müller)と出会い、ミュラーの詩に付曲して生まれたのが連作歌曲集「冬の旅」です。友人たちからは「こんなの暗すぎて好きになれない」と不評をかっても、シューベルト本人だけは気に入っていました。亡くなった原因は、腸チフスとも梅毒治療のための水銀中毒ともいわれていますが、死の直前まで「冬の旅」の楽譜に校正を入れていたというエピソードは、だれよりも完成を待ち望んでいたことを物語っています。

本書の型染め楽譜には、カラスと旅人が登場します。西洋でカラスは あの世とこの世をつなぐ」象徴で、そのカラスが旅人にまとわりついて離れないという歌曲です。シューベルトの友人たちが忌み嫌った「暗さ」をまさに象徴しているシーンです。ところが、 小島悳次郎の作品をよく見ると、12枚の型染め楽譜はどれも彩りが豊かで、死を連想させる
暗澹たる光景はどこにも見当たりません。墓場のカラス、不吉なカラス、はどこにいったのか。むしろ、共に旅をする「旅ガラス」として描かれているです。

ここからはわたしの仮説です。悳次郎はシューベルトのカラスを、日本のカラスに翻案したのではないか。厄介者として疎まれる現代のカラスではなくて、太陽神の象徴である「八咫烏」として。つまり、本書 Die Krähe Winterreise」に描かれているカラスは、記紀神話の神武東征で、カムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)を熊野から大和へ道案内した伝説のカラス「八咫烏」なのです。そうすると、旅人はカムヤマトイワレビコで、この旅の道中は、熊野から大和へむかう険しい森のなか、ということになる。日本と世界のあいだで、型染めを探求した 小島悳次郎がそんな換骨奪胎を秘かに企んでいたとしても不思議ではない。やっぱり「旅ガラス」でよかったんだ、とひとり合点がいきました。

型染絵という日本の染色技法で、世界に視線を注いだ小島悳次郎の異才は、まだまだ知られていません。民藝運動が再び注目されている現在の日本でも、だれもきちんと紹介していないと言っていい。それでも、彼が成し遂げようとしたことは、たとえば、文楽の人形遣いがギニョールを操ったり、歌舞伎役者がシェイクスピアを演じるようなことだったのではないか。日本と世界のあいだで揺れ動いた民藝の詩魂が、しまいにはカラスを染め変えてしまったのではないか。

シューベルト自身は「冬の旅」の旅人がだれで、どこを旅しているのか、明らかにしないまま早逝してしまった。それでも、小島悳次郎の「冬の旅 カラス」の型染絵は、生の讃歌にあふれています。


「Die Krähe」
作詞:Wilhelm Müller(ヴィルヘルム・ミュラー)

Eine Krähe war mit mir
Aus der Stadt gezogen,
Ist bis heute für und für
Um mein Haupt geflogen.
Krähe, wunderliches Tier,
Willst mich nicht verlassen?
Meinst wohl bald als Beute hier
Meinen Leib zu fassen?
Nun, es wird nicht weit mehr gehen
An dem Wanderstabe.
Krähe, lass mich endlich sehn
Treue bis zum Grabe!


一羽の烏があの街から
僕のあとについて来た
今日まで絶えることなく
頭の上を舞っていた

烏よ、おかしな奴め
僕を見捨てる気はないのか
多分もうじきここで
僕の体を餌にするつもりだな

まあいい、いくら杖にすがっても
もうこれ以上進めはしまい
烏よ、最期に僕に見せてくれ
墓まで続く誠実というものを


Text by 櫛田 理

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